感応寺についてABOUT US

感応寺について感応寺について

ごあいさつ

当寺は真言宗に属し京都嵯峨大覚寺派の直末として、兵庫県三田にある三国ヶ嶽のふもとにございます。646年に法導仙人が当寺の本尊千手観音菩薩を作り開基建設。当寺はその昔三国ケ岳の頂上にありましたが、天正年間に明智光秀の夜襲により本堂は焼失。幸いにも本尊様は難を逃れ今の堂山の地に再建し、以後観音様の御加護と檀信徒の皆様の思いにより脈々と法燈が受け継がれております。山深き緑豊かな自然の静寂な環境において、生きとし生けるすべての命に心を込めて供養しております。

感応寺の歴史

感応寺は兵庫県三田市小柿にある真言宗大覚寺派の寺院です。渓谷のすばらしい景勝地を望むこの地に感応寺が開かれたのは大化二年(六四六年)のこと。法導仙人が千手観世音を作って開基創建されたと言われています。比僧山の中腹から山頂にかけて本堂の観音堂があり、杉や檜の樹林の中に急な勾配に設えられた自然石の苔むした石段は日の光をさえ遮られ、真夏でも肌寒い程です。

その昔、感応寺は三国岳山腹の通称「龍神池」のほとりにありましたが、戦国時代、織田信長の丹波平定のおり、兵糧を感応寺から密かに八上城に送っていたため、明智光秀の夜襲にあい消失、本尊は寺の僧により「こうもり岩」の洞窟に難を逃れたと言われています。 三田の民話によると『寺宝であった金の鶏の置物が、その時池に投げ込まれたまま見つからず、何百年か後、龍が風と水を呼ぶ龍神に変身し、「龍神池」から鶏の鳴き声が聞こえた。それはきっと金の鶏に違いない』と伝えられています。現在の感応寺は後に中興清運法師が今の地に再建し、今日に至っています。

感応寺には「眼の仏様」の伝説があり『第七世仙海法師が、眼病を患ったとき、本尊観世音菩薩に一ヶ月間願を立てて日夜祈念すれば、夢に気高い女人が現れ自ら手を取って、光明加持の秘宝を授けられた』とされ「眼が悪ければ感応寺へ」と今でも眼の仏様として地元の方々に崇拝されています。寺宝には弘法大師行状図絵八巻があり、この図絵は文化四年(1807)から発願して三ヶ年を費やし完成した空海の一生を描いたものです。絵師武田春祥作といわれ昭和62年、市の文化財となっています。